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社長メッセージ

料理を通じて人を幸せにする。

<スパゲティ屋「とすかーな」からはじまった四家氏の挑戦>

Q.四家さんは1992年に最初のお店「とすかーな」を武蔵小山にオープンして独立されましたね。まずそれまでの創業の経緯をお聞かせいただけますか。

A.もともとうちの両親が千葉の船橋で焼鳥屋をやっていたんですよ。途中から割烹料理に変わったんですけど、その頃、小学2~3年くらいの時から里芋の皮むいたり、アジを捌いたりお店のお手伝いをしていました。そんな親の背中を見ていたんで、僕も料理やろうって自然と思うようになっていましたね。全然勉強もしなかったし。(笑)当時、僕の地元は暴走族みたいな悪いお兄ちゃんがいっぱいたんですよ。威勢のいい。だから、当時の思考は、「早くバイクに乗るのがかっこいい」「早く車に乗るのがかっこいい」「早くディスコに行くのがかっこいい」みたいに思っていました。なので、とにかく早く店を出したほうがかっこいいって信じてましたね。で、「早く店出すにはどうしよう」て考えて、憧れの新宿
で働く先を探したんです。
ちょうど新宿西口に大行列ができているお店があって、その場で面接申し込んだんです。店の人からしたら、行列で忙しいのに、その場で面接申し込むなよって感じですよね。(笑)それが「スパゲティハシヤ」でした。これくらい行列つくるお店で技術を得たら、必ずヒットするお店が出せるだろうと思って入社しました。

Q.そこで四家さんの飲食人生が本格的にスタートしたんですね。

A.そうですね。それまでも高校時代3年間ずっと喫茶店でアルバイトして遊ぶ金を稼いでましたが修行はここからですね。でも、両親は小さな頃から放任主義の教育だったので、「ありがとうございます」とか感謝の言葉が言えないんですよ。それでいて変に正義感が強いんで、先輩に反発して毎日殴られているような状態。(笑)毎日怒られに行っているようなもんです。現場は、すごく厳しくて10人入ったらだいたい9人は辞めていくみたいな感じでした。だけど、先輩たちを見ていて納得いかないところも多いんですよ。繁盛しているからといってお客様をおざなりにするというか。この人たちが間違ってるのに、僕が辞めるのは悔しいと思って、意地でも辞めない、先輩たちより先に店を出すぞ!必ず見返そう!
と心に決めてやっていましたね、当時は。

Q.そんな厳しい環境をどうやって乗り越えられたんですか。

A.ある時、後輩が入って来たんです。見ていると、先輩の言うことに対してとても素直でかわいがられるんですよね。しかも、どんどん仕事も任せられる。僕は反発ばっかりしていたんで、毎日怒られまくり。(笑)仕事覚えるために入ったのにこれじゃ早く店を出せないと気がついて思い直して先ずは先輩に可愛がられるようにしたんです。そこからうまくいきはじめましたね。

Q.なるほど。スパゲティハシヤには何年いらっしゃったんですか。

A.そうですね。7年いました。最後は蒲田の東急プラザのレストラン街の店舗。僕が移動した当初は、お客様が全然こなかったんですよね。他のお店はどこも行列なのに、うちが一番ヒマなんじゃないかってくらい。大先輩が揃って何やってんだと(笑)僕は行列店で働いていたという冠をもって独立したかったのに、こんなヒマな店作ってどうすんだってね。(笑)それで、メニューを作り替えて、接客も変えて、料理写真を撮って、それをポスターにして店先に貼ったり、マニュアルも会議もなかったんで、どちらも新しく作って、やりたい放題改善させてもらいました。正直言うと当時数字なんか全く見てなかったんです。見てたのはお客様だけ(笑)なんで入って来ないんだろ?どうしてリピートしてくれないん
だろう?それを徹底的に改善しただけなんです!数字を追ってたら数字は上がりません。お客様を見ないと。結果的に350万円くらいだった売上が1000万円以上までいきましたね。それで大手を振って独立できると、退職しました。

Q.それで、武蔵小山「とすかーな」で、念願の独立を果たしたんですね。

A.そうですね。26歳の時でした。でも、最初は人を募集しても全然こなくてかなり苦労しました。応募があったとしても、経験がない若い子ばかりで。「ソースはあとどれくらい残ってる?1/3とか3/5とか言ってごらん」と聞いても、その「1/3」が理解できない。(笑)これはゼロから育てていくしかない。どうやったら覚えてくれるだろうって模索しながらやっていました。怒ったら萎縮して成長しないし、無理なくゆっくり育てていこうって。それからしばらくして、もう一度募集をかけたたら、大卒と中途が2人来て、自分の給料下げてでもいいから2人とも雇いたいと思って採用して任せられるまで育てました。そんな訳で2号店の代々木店を出すまで7年かかりましたよ。これも人を育てているようで実は自分育て
だったんですね。

<産直食材の衝撃。“無化調イタリアン”の原点はお客さんとの出会い>

Q.今では老舗人気店ですが、やはり苦労されてきたんですね。四家さんは食材にもこだわりをもってらっしゃいますが、そのきっかけはお客様から教えられた野菜だったとか。

A.そうですね。エアバギーを販売する会社の女性社長が2号店の代々木店に食べに来たんです。その人は妊婦さんを相手にお仕事されているので、すごく食べる物に気を遣ってるんですよね。それで「すごく良い野菜があるから、あなた、食べなさい!」とすすめてくれたんです。実際送られてきたルッコラを食べたときに、衝撃を受けたんです。「なんだこれ?」って、体中に電気が走りましたね。「身体が喜んでる!」って。そこから無農薬野菜を入れるようになり、産地にも足を運ぶようになりました。それが代々木店をオープンしてまもなくだったので、12年くらい前ですね。

Q.この出会いがきっかけで食材や生産地、生産者に関心を持つようになったと。野菜以外にも産地に訪れますか。

A.はい。食材に興味を持つようになって、漁港にも足を運ぶようになりました。最初は「そういえば、魚って漁師さんから直接買った方が安いんじゃない?」と何となく思いついて、定休日に千葉の銚子にふらっといったんですよね。すると、ちょうど港にいっぱい魚が水揚げされている。「こんなに安くて新鮮な魚がいっぱいあるじゃないか」と飛びつきました。だけど、直接漁師さんから売ってもらおうとすると全然うまく行かない。「アジ2本、ホウボウ4本ちょうだい」と注文すると、「俺らはデカイバケツいっぱいホウボウを買うんだぞ。お前のために2匹売って、残った何十匹はどうなるんだ」って怒られて。(笑)それで「なるほど」とそのシステムが分かるようになるまで、何度も通って頭下げて勉強しました。

<シェフとして腕を磨いた飛び込みイタリア修行>

Q.パスタ専門店として創業されましたが、四家さんがイタリア料理の勉強を本格的にはじめたのはいつ頃からですか。

A.先輩がはじめた立川のイタリア料理店を見たことがきっかけです。もともと僕の頭の中には、スパゲティ屋しかなかったのに、こんなにワイン揃えんるんだとか、ピザなんか出すんだとか、アンティパスト、チーズの盛り合わせ出すんだとか、とても衝撃的だったんです。しかも、内装がかっこいい。
そんな先輩のお店を見て「これからはコレだな」と思ったわけです。スパゲティだけ売っていたら、夜の売上は上がらなくなる。それで、2店舗目の代々木店は「スパゲティ&ダイニングバー」にしたんです。でもまたここで苦労して。「スパゲティ食べながら酒飲むやついるわけないだろ!」ってあとから気づいた。(笑)そこで落合シェフの本とか、接客の本とかを買ってきて、取締役の佐藤と2人で勉強しながら食事のメニューを増やして、接客も毎日のように改善していきました。

Q.代々木店でスパゲティ屋からイタリア料理店へと変わっていったんですね。
よくイタリアにも行かれて、厨房に入って料理の勉強をされてますよね。

A.そうですね。代々木店が軌道に乗った頃から、イタリアに行くようになりました。初めてイタリア行ったその日に地元の人しか行かないリストランテに行って、スタッフと仲良くなって2日目には店がオープンする前に張り込んで「働かせてくれ」ってお願いして厨房に入れてもらってました。(笑)ローマ、トスカーナ、ミラノ、ヴェネチアなどのお店をまわって食材の使い方や調理方法を学びました。で、日本に帰ってきて「おい!イタリアは作り方全然違ったぞ!」と従業員全員集めて、パソコンで写真見せながら、作り方を全部教えながら変えていきました。

Q.なるほど。それで料理のレベルアップをはかってきたわけですね。

A.そうそう。それからは毎年幹部を一人ずつ連れてイタリアに行っています。

株式会社イタリアンイノベーションクッチーナ
代表取締役社長 四家 公明

1964年千葉県船橋市生まれ。
株式会社イタリアンイノベーションクッチーナ、代表取締役社長。
高校卒業後、「スパゲッティ ハシヤ」入社。
厳しい修業時代を経て、1992年に武蔵小山で「スパゲッティとすかーな」(現「とすかーな武蔵小山総本店」)を創業。
1999年に代々木店、2004年に吉祥寺店を出店。その後、住宅街から商業施設まで幅広く出店を重ね、2014年「東京ミート酒場」を浅草橋にオープンさせ、大ヒット。
「日本一おいしいミートソース」を使った「のっけ麺」でも知られており、テレビをはじめ数々のメディアで取り上げられている。
健康的でおいしい料理を通じて、人を幸せにすることを理念とし、現在「TOSCANA」「Quattro Cuori」「TRiPPAiO」「東京ミート酒場」の4業態15店舗を展開する。